オフシーズン特別企画として、楕円球タイムトラベル「復刊ノベルズ」がスタートします。1995年5月10日発行の「頭で見るラグビー」(文春文庫)より、永田洋光著「大人のラグビービッグバン」を全8回にわたって更新します。
1988年、日本ラグビー界はFWの体重が限界を超えて重くなったとき、才能という輝きさえ呑み込むブラックホールと化してしまったーー。
そのブラックホールの中で平尾誠二(神戸製鋼)ははるかに上回るエネルギーでチームを率い、ビッグ・バンを起こして、光を取り戻したのだ。
日本ラグビーが輝いていた時代を映し出したロングトリップへタイムトラベル!
星の墓場
恒星に寿命が訪れ、その輝きが失われていく時、恒星の内部にはエネルギーの放出を終えた重い元素が残り、それはやがて高密度に凝縮されて、光さえ曲げるような重力を持つ。それがある限度を超えて質量を持った時、恒星は光すらも逃さぬブラック・ホールと化す。
どんな光も逃れることのできない星の墓場――それが、ブラック・ホールである。
昭和の末、1988年。日本のラグビー界も、そんな重力場に呑み込まれようとしていた。質量、つまりFWの体重が限界を超えて重くなった時、日本のラグビーは才能という輝きさえ呑み込むブラック・ホールと化してしまったのだ。
11月19日。香港は銅鑼湾(コーズウェイベイ)の街から山側へ約1キロ、まだ現在のような最先端のスタジアムに生まれ変わる前の香港政府大球場(ガバメント・スタジアム)では、日比野弘監督率いる日本代表が宿敵の韓国代表と第11回アジア選手権決勝を戦っていた。
薄暮の中で始まったゲームは、日のあるうちこそ日本がラッキー・トライを奪ってスコアの上で優勢を保っていたが、残照が消えていくのと軌を一にするように、その勢いも急速にしぼんでいった。FW戦では、韓国の軽量だが筋肉質のFWが日本の重くて鈍いFWを圧倒し、8割方のボールを支配。日が落ちてカクテル光線が照らし始めたグラウンドでは、日本代表の副将でバックス・リーダーを務める平尾誠二が、「FWしっかりせいっ!これ以上守れんぞ」と悲痛な叫びを発していた。
13-13のタイ・スコアで迎えた後半44分、韓国代表はラインアウトのピール・オフからバックスに展開。鋭角的なシザースで抜け出したCTBがFLへとボールをつないでトライを奪い、ついに勝負に決着をつけた。13-17。スコアに現れた以上の完敗。それは85年1月15日にV7を遂げた新日鉄釜石が提示してきた「強くて走れるFW」というコンセプトを、重くて局地戦に強いFWと誤読し、バックスの才能=輝きを封殺してきた日本のラグビーが、ドツボという名のブラック・ホールに落ち込んだ瞬間だった。
翌11月20日。閑散とした、星の墓場のような香港ガバメント・スタジアムとは対照的に、秩父宮ラグビー場には雨にもかかわらず3万人近い観客が詰め掛けていた。記者席を埋めた、香港に行こうとさえしなかったラグビー記者たちも、明大―日体大のゲームを食い入るように見つめている。その試合中に、翌年四月に予定されている第2回ワールド・カッブ(W杯)アジア・オセアニア地区予選の実施要綱が記者席に配られたが、対戦相手が、前日敗れた韓国、一度も対戦したことのない南太平洋の強豪・トンガ、西サモアとあっては、感想は「こりゃ無理だな……」の一言に尽きた。そして、記者たちの注意は一枚の紙切れから、目の前で繰り広げられている “ 対抗戦の大一番 ” へと戻って行った。